訂正が効かないこと 
月曜日, 1月 29, 2007, 05:41 AM - 戯れ言
人は間違ったことをいうことがある。
間違っているならば訂正すればいい。
人が少ないならばそれを聞いた人全員に
「間違ってました」といえば良い。
しかし人が多いとそれができない。
だから「間違ったことをいわないこと」が大事になる。

間違ったことをいうと、それを信じた人が損害を被ることがある。
このときの責任はどちらにあるかというと、
「間違ったことを言った人」と「それを信じた人」の
どちらにも責任があるといえるだろう。

ここに一つ争点がある。
意図して間違ったことを言った場合、
つまり嘘をついた場合はその責任はどちらにあるのかということ。
ただ「間違ったことを言った人」が
「嘘をついた」のか「単に間違った」のかは
自白でもさせないと確定できない。
だから嘘をついた人に悪意があれば確定は不可能。
つまり「それを信じた人」の責任は0にならない。

絶対的に信じても良い物、
それは公的機関の文書と学術論文くらいであろう。
(それでも捏造されたものはあるが)
それ以外のもの、特にネット上の情報は
信じて被害が出た場合は信じた側「にも」責任がある
(100ではない)といわざるを得ないだろう。

間違ったことを言った後で訂正すれば責任は0になるか?
これが認められるとすると以下のようなことが起こる。
嘘をついた人が後から手当たり次第訂正をすれば
責任逃れができてしまう。
だから訂正すれば責任は0になるというのは認められない。
あくまで訂正は「間違った情報」によって損害が出ることを
防ぐものであって責任を0にするものではない。
ただ「信じた人」も情報の信頼性や訂正の有無に
注意を払っておけば損害を出さずに済むだろう。

厄介なことは今の世の中が忙しいこと。
忙しいから一々信頼性の確認や訂正の有無なんかしていられない。
結局のところ「間違ったことを言わないこと」、
「間違っている疑いがあることを言わないこと」に行き着く。


そして堅苦しい世の中になる。
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失敗する奴が悪いこと 
月曜日, 1月 15, 2007, 09:03 PM - 戯れ言
車やバイク、自転車に乗っていると
速度の出し過ぎや一時不停止をよく見かける。
今の乗り物は性能が向上しているから
法規走行での安全性は冗長ともいえるけど、
だからといって無視してもいいものでもない。
まぁここでは法の妥当性についてはどうでもいい。

速度の出し過ぎや一時不停止を指摘するとこういう
「事故を起こす奴が悪い」、「事故を起こさなければ良い」と。
まぁ事故を起こしていないなら被害者はいないのだから
間違っていないといえば間違っていない。
(周りに事故を誘発させるようなのなら話は別だが)

知人の車に乗ったとき、
その人は見通しのいい交差点で一時停止を止まらなかった。
その人は「見えてるからええやん」といった。
まぁ間違ってはいない。
何も危険がないところで止まるのは無意味だ。
しかし、こういう人が事故を起こすと十中八九こういう。
「見えてなかった」と。

飲酒運転も同じだ。
「事故を起こさなければいい」で乗って事故を起こして
「酔っていたから」という。

所詮人間といっても猿のなれの果てだ。
物が考えれるといってもたかだか知れてる。
おかげで法的速度でまったり走っていてもやたらと煽られるし
一時停止で止まっただけでクラクションを鳴らされる。
スポーティカー&バイクは好きだけど
何が悲しくて市街地で飛ばさなあかんねん。

こうやって賢い振りして
あ〜だこ〜だ考えて心労溜めてるくらいなら、
いっそのこと何も考えなかった方が楽だっただろう。
だけどそれを制御することは自分にはできない。
所詮自分も猿のなれの果てということか。
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思考のイメージ 
月曜日, 1月 8, 2007, 06:36 PM - 戯れ言
人は思考する。
思考したり知能の持った生物が人の定義だとかいう人もいる。
まぁそんなことはここではどうでもいい。

僕は物を考えるとき、
頭の中でフローチャートや
おもちゃのブロックを組んでいくをイメージする。
このためか物理やプログラムの概念を考えるのは
比較的得意なのだが逆にいくらやっても考えられないことがある。
日本語や英語の語学だと意味を理解するだけでも異様に疲れる。

大学であった人だと数学の式変形のイメージで思考する人、
将棋の盤面を重ねたイメージで思考する人、
刺激に対しての連想を伝いながら思考する人がいた。
そういえば兄貴は頭の中で絵を描きながら考えるといってたかな。

人の思考に関しての得手不得手は
個々の人の思考のイメージによるところが
あるんじゃないかと思った。

もっともこれは僕の考えであって、
既にどこかの人が心理学か何かの学会で発表とか
してるかもしれないけど、発表されたから事実とも限らんし、
調査したといってもその調査の妥当性が怪しいこともあるから、
「こういったこともあるかもしれないねぇ」という程度に
留めておいて欲しい。
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議論について思うこと 
土曜日, 12月 30, 2006, 04:18 AM - 戯れ言
テレビでいじめ問題について議論していた。
問題について議論する、それはおおいに結構だ。
「いじめを行う者を処罰しろ」という意見もある。
「いじめが起こるような学校側に問題がある」という意見もある。
「いじめられる側に問題があるのだからそちらを指導しろ」
という意見もある。
それぞれの人がそれぞれの意見を持つ、
そのことについてそれぞれ肯定も否定もする気は
「ここでは」ない。

しかし一つだけ気になることがある。
「いじめ」の定義ってなんだろう。
どの「いじめ」を取り扱った番組でも
「いじめ」の定義について触れているものがない。

「集団で無視する」という「いじめ」もある。
「集団で罵詈雑言をぶつける」という「いじめ」もある。
「対象の悪口を言いふらす」という「いじめ」もある。
「暴力を振るう」という「いじめ」もある。
「お金を巻き上げる」という「いじめ」もある。
第1,2,3者はともかく、
残りの2つは傷害罪や恐喝、強盗の罪という「犯罪」に該当する。
(第2,3者も「犯罪」になりうることもある)
僕は第1,2,3者を「いじめ」と認識している。「僕は」ね。
残りの2つは犯罪であり、被害を受けた際は
警察に被害届を出すのが筋だと「僕は」思う。

で、「僕の認識」なんかはどうでもいい。
ここで議論する気は無い。
僕が気になっているのは
「どれとどれをいじめとして扱うのか?」ということを
触れることもなく議論を行おうとしている人たちのことだ。

僕が理工系の学会に首を突っ込んでいたのもあるが、
議論をしたり論文を書く上で言葉の定義にかなり気を遣う。
語源がハッキリしている言葉は良いが、
特定の分野特有の言葉や新たに定義した言葉には
必ずその定義を明確にする。
そうしないと読む人や後の研究をする人が混乱するからだ。

少なくとも出演者の間で「何をいじめとするか」の
「共通理解」が狂っているのが見て取れる。
議論をするということはそれぞれの意見をぶつけ合うわけだが
お題である「いじめ」の定義を示してないのに
議論をしようというのは愚かだろう。

大学の授業でグループワークを行うとき
それぞれの言葉の「共通理解」の狂いが良くあった。
人それぞれ違う、だから共通理解が狂うことそのものは悪くない。
だから「ここではこの言葉はこの意味で行きますね」と
決めてから話を進める。
ここで言葉を強制すると自由が損なわれるとか
言葉を強制することに問題がある、とか言う人間は無視する。
たしかに言葉というのは大事だが、
議論をする上では大事なのは言葉よりその本質だ。
逆にいえば言葉(名前)なんか後で付け直せるんだから
議論の上では「本質が何であるか」が通じればよい。
(もっとも不用意に言葉を作ると言葉が一人歩きする危険もある)

少なくとも議論をする上では
「言葉の定義に関する共通理解」が欠かせないということだ。
僕は大学でこれを感じさせられることが多かった。
だから大学ではこれを大事に教えていると思っていた。
が、議論をしている人たちは
言葉の定義の共通理解の食い違いを整えることもなく、
気づくこともなく、自分の意見を述べている。
議論を始める前に「ここでは〜〜をいじめとして取り扱います」と
一言いえばかなりまともな議論になるだろうに。
(その程度でまともになると思ってる僕も子供か)

もう一個気になることがある。
わざと定義を曖昧にして議論を荒らした方が視聴率が取れる、
とかテレビの中の人が思っているのではなかろうか(推測)。
まぁ所詮資本主義で商売だから非難する気はない。
しかし、「もしこれが事実だとすると」
そういったことを行える日本を悲しく思う。


|ω・)
もしくはそうさせてる人間がいる?
てか酔って書いてたら長文になってるし・・・。
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ノートPCの掃除 
火曜日, 12月 26, 2006, 03:06 PM - 戯れ言
ThinkPad(ノートPC)からの異音に気がついた。
どうやらCPUのファンがホコリか何かで詰まっていたようだ。
買ってから2年半、外からダストブロアでホコリは飛ばしていたけど
分解整備は一回もしたことなかった。
この際だから分解整備をする。
IBMのサイトの分解整備マニュアルを見ながら
キーボードとパームレストを外す。
そしてCPUファンの当たりにダストブロアを吹き付け・・・
バフッ(゚∀゚)
舞い上がるホコリと吹き飛ぶ綿ボコリ、
机の上がホコリだらけになった。
そりゃこれだけホコリが溜まってたら
ファンから異音もするわな、と思いながら机の上を掃除した。
掃除を終えたThinkPadは異音が消え、以前に比べ静かになった。
教訓:たまには掃除しよう。


しかしまぁIBMや海外メーカーは分解整備や部品交換が
ユーザー保守として認められてるからいいけど、
国内メーカーのほとんどは
保証が切れるとかで掃除すらままならない。
さらに国内メーカーはキーボードが壊れただけで
キーボードを部品として送ってくれれば自分で交換するのに
「一回修理に出してください」などと言う。
そして保証期間外だと部品代に加えて高い工賃を要求してくる。

もっともドライバーすら握ったことないような人間が
そこら中にいる今の日本でユーザー保守なんか認めたら
進んで壊す愚か者が出てきて対処しきれないんだろう。
知り合いでドライバーを握ったことがないという人がいたので
「中学の技術でやってないの?」と聞くと
「家庭科しかしてない」と返ってきた。
調べてみるとどうやら話題の未履修問題の学校だったらしい。
まぁ学校の授業なんて適当にしか聞かないのも多いだろうけど、
全くやっていない人も本当にいるんだと思った。

なんにせよ
僕の当たり前は人の当たり前に含まれず
人の当たり前は僕の当たり前に含まれないということか。
やってらんねぇ(;´Д`)
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