共同体としての進化 
日曜日, 1月 27, 2008, 08:11 PM - 戯れ言
単細胞生物は単独で生きていた。
単細胞生物は一つの細胞で生きるために必要な活動をすべて行っていた。
しかし、他の細胞が栄養源を与えてくれることはないから、
自分が生きるために必要な栄養源は自分で確保しなくてはならない。

単独で生きていた細胞は、協力して多細胞生物として生きるようになった。
多細胞生物は個々の細胞の集まりだけど、共同体として生きる。
各細胞は共同体の中で割り当てられた役割を行う。
栄養源を確保する専任の細胞が居るから、
個々の細胞が栄養源を確保しなくても、他の細胞から栄養源を貰うことができる。

多細胞生物である動物は、細胞の共同体だが、
一つの個体として活動するようになった。
動物は一つの動物で生きるために必要な活動をすべて行うようになった。
しかし、他の動物が栄養源を与えてくれることはないから、
自分が生きるために必要な栄養源は自分で確保しなくてはならない。

単独で生きていた動物は、協力して群れとして生きるようになった。
群れは個々の動物の集まりだけど、共同体として生きる。
人は集落、村、国などの共同体を作るようになった。
各人は共同体の中で割り当てられた役割を行う。
栄養源を確保する専任の人が居るから、
個々の人が栄養源を確保しなくても、他の人から栄養源を貰うことができる。


単細胞生物生物が共同体を作り多細胞生物になることを進化と呼ぶならば、
人が共同体を作り集落、村、国になることも進化と呼べるかもしれない。
それを進化とするならば、
単独で生きようとする人は進化に逆らう異端分子ということになる。
人も個を捨て、共同体に尽くして生きる時代なのかもしれない。

既に存在している人には共同体に尽くす人と、そうでない人の2つのタイプの人が居るだろう。
前者は新しいタイプ、後者は古いタイプということになる。
今の世の中だと、古いタイプはいずれ消えるだろう。
古いタイプが生きれる環境はもはや残されていないから。
古いタイプの人は、現状では無理やりにでも新しいタイプに合わせて生きるしかない。

無駄に進化して滅びた種もいるし、進化の必要が無くて進化が止まった動物もいるから、
新しいタイプと古いタイプのどちらが良いのかは一概にいえない。
もしかすると古いタイプが生き残るかもしれない。
もっとも古いタイプが生きれる環境は、新しいタイプに潰されてしまっているが・・・。
古いタイプはいずれ潰されるか修正されるだろう。
共同体の一部として生かされるか、村八分にされるかどちらかだろう。
共同体の一部の振りをする手もあるだろうが少々辛い。

私は何故、古いタイプなのだろう。
新しいタイプであったならば、余計な苦労をしなかっただろうに。
まぁ潰されるにしろ修正されるにしろ、ただで済ます気は無い。
  |  0 trackbacks   |  このエントリーのURL   |  related link   |   ( 3 / 779 )

カビ 
火曜日, 1月 22, 2008, 11:11 PM - 戯れ言
蜜柑を貰っていた。
忙しくて貰ったことを忘れていた。
貰ったことを思い出して袋から出した。
カビが生えていた。
全滅していた。

Googleマップで都市部や地方を見ていて、
マップの建物の影は蜜柑に生えるカビに似ていると思った。
人間は地球に生えるカビに被って見える。
カビは蜜柑が駄目になるまで生え続ける。
人間は地球が駄目になるまで増え続けるのか?

まぁカビの一菌糸の戯れ言だ。

  |  0 trackbacks   |  このエントリーのURL   |  related link   |   ( 3 / 771 )

悩んだらコインを投げる 
日曜日, 1月 20, 2008, 01:15 PM - 戯れ言
ある物事について、自分の本心がわからず、
やるかやらないか悩むときがある。
そういうときはコインを投げる。
表ならやる。
裏ならやらない。

投げたコインの裏表を見たとき、4通りの判断ができる。
・表がでたから、やる。
・裏がでたから、やらない。
・表がでたけど、悩む。
・裏がでたけど、悩む。

自分の本心とコインの裏表が合うと、自分はその通りに行動する。
自分の本心とコインの裏表が食い違うと、自分はやはり悩む。
悩むということは自分の中で既に結論がでている証拠だから、
後ろの2者では、もはやコインの裏表にこだわる必要はない。
・表がでたけど、悩むならば、やらなければいい。
・裏がでたけど、悩むならば、やればいい。


こうでもしないと自分の本心の確認と後押しできないのは
我ながら面倒なものだ・・・(´・ω・)

  |  0 trackbacks   |  このエントリーのURL   |  related link   |   ( 3 / 818 )

物の価値 
日曜日, 1月 13, 2008, 08:53 AM - 戯れ言
物に与えられた機能が同じならば
新しい物でも古い物でもできることは同じ。
でも古い物は価格がどんどん下げられる。
中古品は前に使ってた人がいるから、
消耗した分だけ価格が下がるのは仕方がない。
でも売れないから価格を下げたり、
中古品だから極端に価格が安くなるのをみると
その物の価値とは何なんだろうと思う。
私も「古い物や中古品の価格が高くても買うのか?」と
聞かれたら首を縦には振らないだろう。
しかし、そう思ってしまう自分自身が毒されてるのではなかろうか。

物の内部構造や仕組みをブラックボックス化すると、
その物だけを見ても内部構造や仕組みが理解できなくなる。
作り手がそれを作るのにどんな苦労をしたのか理解できない。
理解できないから価値がわかりにくくなる。
そうなると新しいか古いかで価値を判断するようになる。
つまり相手が「新製品です」というと
常に旧製品よりも価値があるということになる。
悪法に対応するために馬力も燃費が悪くなったバイクや、
性能は対して変わらないのに消費電力だけ増えたCPUや、
不要な機能を抱え込んで無駄に重たくなったOSでも、
「新製品です」といえばそれらを誤魔化すことができる。
また、自分が作り手を理解できないから、
作り手の凄さを理解したり、敬意を払うこともできない。
作り手の凄さや物の価値がわからないから、
大事にすることも疎かにしてしまう。
ただのお金と物のやりとりだけになってしまう。

日本は「もったいない文化」といわれる。
単にケチくさいともいわれる。
でも、どちらかというと私はケチというよりも、
物を大事にしないと罰に当たるという意識の方がある。
これは神道では八百万の神がいるといわれ、
全てのものに神が宿るから、物は大事にしないといけないと
いうところから来ているのではないかと私は思っている。
もっとも、大事にしないと罰に当たるだけの神様なら
いない方が人間としては楽かも知れない。
むしろ、価格云々、価値云々で
人間が新製品をどんどん買い換えていかないと
成り立たない今の社会では、
このような信仰は邪魔者以外なんでもないだろう。

ブラックボックス化で物を理解できず、
物を大事にするということもなくなる。
すると「価値≒価格」となる。
物の価格は古くなれば下がるから、物の価値はどんどん下がる。
まぁそれが良いか悪いかはともかく、
今の社会がそのようにできている。、
でも、それの行き着く先はどこなのだろう。
それを突き詰めていくと、
人も新しい古いで価値が決まることになったりしないのかな。




久しぶりにバイク雑誌を買って、
最新の車種を見ていたら、新しいバイクもいいなと思った。
そして自分が欲しいと思える車種がないか探していた。
もはや「新しいバイクに買い換える」ということが目的になっていた。
一目惚れしたバイクがあるとか、今のバイクが壊れたならともかく、
「買い換える」ということが目的になってしまう自分が情けない。
そんなもの浪費以外なんでもない。

  |  0 trackbacks   |  このエントリーのURL   |  related link   |   ( 3 / 876 )

諦めること 
金曜日, 1月 11, 2008, 12:24 AM - 戯れ言
他に手が無くて八方塞がりのときは諦めるしかない。
手が無くなる理由は、社会的事情であったり
家庭的事情であったり、金銭的な問題であったり、
自分の力であったりする。
もっともいずれかがあれば諦めずに済むこともある。

諦める理由はいくつかあるが自力でどうにかなる部分もある。
唯一、自分の力、つまり筋力、知力、精神力、体力だけは
自力で鍛えられる(まぁそれが辛いわけだが)。
ただ力というのは評価しにくいし、良い評価を得るのは難しい。
また悪意があれば実際に力があったとしても評価を揉み消すことができる。
周りに悪意があるときは、唯一の自力でどうにかできる部分すらもできなくなる。

格差社会は格差があることではなく、
格差を埋めることを諦めざるを得ないことが問題だと思う。
まぁ、この話はちょっと置いておく。

グループで行動するとき、一人が主張し続けると和が乱れる。
だからある程度は周りの人を見て、主張を控える必要がある。
場合によっては主張することを諦めなくてはならない。
では力が無くて自分自身が生きることも立ち行かないとき、
自分が無理して生きると周りの人に迷惑がかかるならば、
生きることすらも諦めなくてはならないのだろうか。

自分がちょっとした主張を退くならともかく、
自分が生きれなくなるのであらば、もはやそこに「和」はない。
この場合「自分が生きるための主張を行わないこと」はそれ自体が和を乱すことになる。
つまり自分が生きるための主張をすることこそが和を守る。
常に「主張しないこと=和を守る」というわけではない。
本気で自分が死ぬかもしれないならば、
犯罪を犯してでも主張をすることは許される行為だと「僕は」思う。
ただし、この考えは解釈によってはテロや戦争を容認してしまうため注意が必要だ。
犯罪を犯してでも主張せざるを得なくなる状況が起こらないように、
民の生活を守るのが国の役目だと思うのだが、守られていないと思う。
(ただし税金払ってるんだからすべて国の責任だというわけではない)


バイクで走りに行ったときに立ち寄る公園に
野良猫の成猫3匹、子猫2匹が住み着いている。
生まれた時期が遅いのか、片方の子猫は体が小さかった。
いつも煮干しや唐揚げやチキンナゲットといった食べ物を持って行く。
そして一緒に食う。
食べ物をあげるときは気をつけないと取り合いになる。
成猫は流石に子猫たちからは食べ物は奪わなかったが、
子猫の間でよく奪い合いが起こっていた。
当然、小さい方の猫は奪い合いに負けていた。
食べ物もとれず体が小さいから、冬になると死ぬだろうと思っていた。
だが、生きていた。
その子猫は目つきが鋭くなり、
奪い合いになると唸り、威嚇し、相手を殴りつけ、
食べ物を奪い取るようになっていた。
猫の社会でも相手を攻撃するのは最終手段なのだろうが、
その子猫は生きるために、
その最終手段を使わざるを得なかったのだろう。
できれば最終手段は使って欲しくはなかったが、
私には見守るしかできなかった。


人間の社会でも実力行使は最終手段だ。
本来貰えるはずの年金や生活保護や給料が貰えず死んでいく人がいる。
こういう人たちは最終手段を使わざるを得なくなるだろう。
できれば最終手段は使わせたくない。
また、もし事件が起こったときに
「私には見守るしかできなかった。」ともいいたくない。
では私に何ができるのだろう。

私には権力も経済力もない。
こんな雑記で吠える程度のことしかできない。
遠吠えでも人の耳に届けばいいのだが。

  |  0 trackbacks   |  このエントリーのURL   |  related link   |   ( 3.1 / 880 )


Back Next