眉間にシワを寄せている人 
土曜日, 4月 28, 2007, 10:33 PM - 戯れ言
駅のホームを歩いていると、
前から眉間にシワを寄せている人が歩いてきた。
その人が嫌なことがあって機嫌が悪かったのか、
体調が悪くて顔をしかめていただけなのか、
普段から無意識にそうなっていたのか、
気にはなったけど他人のことだから知らない。

自分もふと気がつくと眉間にシワが寄っていることがあった。
そのときは何かストレスを感じていた記憶がある。
しかし自分がストレスを感じていることにはそれまで気がついていなかった。

ストレスを感じることと、ストレスを感じていることに気がつくことは違う。
だから自分がストレスを感じているという自覚がなければ、
眉間にシワを寄せたり、表情がこわばったり、
機嫌が悪くなったりするのではなかろうか。

ストレスを感じていると自覚ができればある程度は対処ができるだろう。
しかし自覚ができなければ自身の精神が蝕まれていく。
短期間ならともかく、長期間になれば身体にも影響を及ぼすだろう。

ストレスを感じていると自覚をしたところで、
何故そのストレスを感じているのかというのはわからないことがある。
厄介なことにこれは考えても原因が特定できないことがある。
時間と共に回復すれば良いが、そうはいかないことがある。
この場合はどうにかして原因を洗い出さないと
そのストレスをずっと感じつづけることになる。
軽いストレスでも数ヵ月、数年と感じつづけると精神を消耗する。

原因がわかっていて、期間がわかっていて、
耐えれるようなストレスなら放っておけば時間が解決する。
恐いのは期間がなく自覚のないストレスだ。
こういうのは成人病の様に、自覚症状が出る頃には
ちょっとしたことで心が折れるくらい精神を消耗させたりするだろう。

なんか調子が悪いと思ったら、
何が調子を悪くさせているのかを自覚できるようにするといいと思う。
それができないならせめて調子が悪いということを
自覚できるようにすることが必要だと思う。

#最近寝てるけど眠い。ちと疲れてるのかね。

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本当に楽しいのか? 
土曜日, 4月 21, 2007, 08:03 PM - 戯れ言
楽しいと思っていることでも、
やっていて楽しくないことがある。
楽しいと感じていたことでも、
楽しいと感じなくなることがある。

ストレスの解消に楽しいと思っていることをやる。
まぁ間違ってはいない。
しかし楽しいと思っているだけで
実はそれほど楽しくないことがある。
この場合はストレスの解消ができないばかりか、
新たなストレスを発生させることがある。
そして新たなストレスの解消のために、
またそれを行うという悪循環に陥る危険性がある。

楽しいと感じていたことでも
楽しく感じなくなることがある。
もしそれに気がついたなら、
時間の無駄だからさっさと辞めればいい。
そして他に楽しいことを探せばいい。
ただ一時的に楽しいと感じなくなることもあるから、
思い出したらまたやればいい。

酒の席を見ていて思った。
僕もイッキ飲みが格好いいと思っていたり
酒に強いことが格好いいと思ってた時期もあった。
ただ馬鹿騒ぎはもともと好きではなかった。
イッキ飲みができて酒に強いことが格好いいことだとしても、
それが自分にとって楽しいとは限らない。
格好悪くても「自分にとって」楽しいことをやらないと勿体ない。

僕は日本酒が好きだ。
基本的にお酒に弱くはない(と思う)ので量を飲むこともできるが、
一定以上飲むとキツくなり、おいしい酒もおいしくなくなる。
日本酒をイッキ飲みなんかしたら味もわからないしキツくなるだけだ。

日頃無意識にやりたいと思って行っていることで、
楽しくなかったり返ってストレスになっていることはないだろうか。
そういうものは自覚して早く辞めた方が良い。
ただし勉強は新たな楽しさに繋がるから除く。

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経験と教訓と本 
木曜日, 4月 19, 2007, 07:40 PM - 戯れ言
人は経験から教訓を創る。
そしてそれを生きる糧にする。

教訓は人や本から学ぶことはできる。
しかし教訓を学んだところで
その教訓が創り出される背景となった経験はわからない。
そして背景となる経験がわからなければ、
自分の人生とそれを照し合せ、
教訓を実行すべき時であるか判断することはできない。
だから教訓を学ぶなら、
同時にその教訓が生まれた背景を考えなければならない。

人は経験から教訓を創ることができる。
しかし経験から教訓を創るのは経験を得た当人である。
だから当人が教訓を創れなければ教訓とならない。

人は人の話や本から経験を想像することができる。
しかし経験から教訓を創るのは
人の話を聞いたり本を読んだ当人である。
だから当人が教訓を創れないこともあるし、
創り出した教訓が話をした人や本の著者と違うときがある。
もっともそれは悪いことではない。

人が一生に経験できることは微々たるものだ。
人の話や本は自分だけでは得ることのできない
経験や教訓を与えてくれる。
だが教訓から背景となる経験を推測したり、
経験から教訓を創り出すことを自分でできなければ、
それらを無駄にしてしまうだろう。

人の話や本の与えてくれる経験は
自分だけで得られる経験より圧倒的に多い。
しかし自分の経験は圧倒的に濃い。
だから人の話や本も大事だが自分で経験することも大事だ。

まぁ考え過ぎはいくない。
結局は適度に人の話を聞き、本を読み、経験することか。

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何でも彼でも日本語にすればいいってものじゃない 
日曜日, 4月 15, 2007, 11:16 PM - 戯れ言
英語の名前を無理矢理日本語に訳したため、
余計に意味がわからなくなった言葉が多いと思った。

日本語は漢字が意味を持ち、
漢字を組み合わせることで読みがわからなくても
意味が汲み取れるように単語や熟語をつくる。
しかし訳語を作るときはそれに当てはまらなかったり、
もしくは適さないことが多々ある。
とくに僕が見た限りだと数学と情報はこれが顕著だったと思う。

関数、方程式、微分、積分、因数、対偶。
これらの用語は数学アレルギーな人が聞くと寒気がするか
なんのことやらわからなかったりするだろう。
寒気がするかはともかくとして、
予備知識無しにこれらの単語を聞くと意味がわからないのは当然だ。
これらの単語はもはや漢字から意味を汲み取るのが不可能だからだ。

これらの用語を元の意味の英語に戻してみよう。
関数:function(作用、機能の意)
方程式 : equation(等しい状態、等しくするの意)
微分 : differential calculus(差異に基づく計算、他と異なる計算の意)
積分 : integral calculus(一体化した計算、統合された計算の意)
因数 : factor(要素、要因の意)
対偶 : contraposition(対置、対立の意)

元の英単語は日本語に無理矢理訳したような造語ではなく、
もともとの意味を持っているため、
英単語の意味がわかればある程度は用語としての意味が推測できる。
つまり英語圏の人間にとってはそれほど難しい言葉ではない。
もっとも英語がわかればの話だが。

英語圏の人間にとってこれらの用語の単語は特別なものではなく、
感でも意味が推測することができるだろう。
しかし日本語に無理矢理訳すると
たちまち専門用語として暗記しなくてはならなくなってしまう。
そしてその意味も別に覚えなくてはいけない。

厄介なことに単語が難しくなると
用語を覚えることに異義があると誤解してしまうことがある。
そのため「関数、方程式、微分、積分」などの
言葉を羅列すれば格好いいと思っている人が出てくる。
高校数学とかではいないかもしれないが、
専門性を帯びた分野になると時々見かける。

確認はしてないが中学、高校の過程では
他の教科に英語を混ぜてはいけないらしい。
カタカナ語はあるけれども英語表記のままのものは無かったと思う。
このためか無理矢理訳した用語が記述されている。
日本語として意味を成していない用語と、英語としての意味を成した用語、
「僕は」素直に英語もしくはカタカナ語にした方が無難だと思う。
でも世界史の国名や人物名でカタカナに直し難いものはここでは対象外する。

ちなみに日本語に訳するのが絶対的に悪いというわけではない。
日本語の用語でも、漢字から意味が汲み取れる用語は良いもので、
それが日本語の美しいところだと覆う。


高校物理についても当てはまるかと思って
高校の頃の教科書をひっぱりだして索引を見てみたが、
意外に日本語として意味が通った用語が多かったので、
今回は高校数学の用語だけに絞った。

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愚痴なら聞くよ? 
木曜日, 4月 12, 2007, 09:33 PM - 戯れ言
自分が弱いことを許せない人、嫌いな人は愚痴をいうのが嫌いであろう。
人に愚痴をいうということは、
信頼していない人になんか愚痴なんていえないから、
いわれた人にとっては信頼されているということ、
いう人にとってみれば信頼しているということになるだろう。
もっとも最近だとネットの匿名性を利用して
まったく知らない他人に愚痴をいうこともできるが、
それで気が晴れるかはわからない。

困ってる人に「愚痴なら聞くよ」という人を見る。
普通の人が信頼関係がある人にそういわれたなら良いだろう。
ただ人間不審に陥るくらい疲弊しきった人に
その言葉をいったらどうなるだろう。
考えてみてほしい。

「愚痴なら聞くよ」という言葉は最適解ではなく、所詮は局所解だ。
どんな人にもその言葉が有効とは限らないし、むしろ逆効果のこともある。

「自分が周りから見て弱いように見えるからそんな言葉いわれるのだろう」
「人に愚痴をいうのは自分の弱いところを人に見せてしまう」
「相手は弱い人間を助けることで自分の優越感を満たしたいと思っている」
このように考えてしまうくらい疲弊してしまった人がいたとしたら、
その人に「愚痴なら聞くよ」といったところで逆効果にしかならないだろうと
「僕は」思う。

人間不審に陥るくらい疲弊した人はどうしたらいいのだろう。
信頼できる人を探して人間不審を解くのか、
自分の弱さを認めて愚痴を出していくのか、
自分の経験をでっちあげて人生の糧にしたり宗教を信仰することで
自分の中に信念や心の支えを創るのか、
他にも方法はあるかもしれないけど人それぞれだろう。

これを読んだ人は結局どうすればいいんだよと思うかもしれない。
これは僕も答えられない。
僕も僕なりの考えから僕なりの解を探し行動しているだけで、
それが良い解とも限らないし、むしろ悪い解かもしれない。
結局のところ、疲弊している人も助ける人も自分で考えるしかない。

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