万年筆を捜索 
火曜日, 5月 20, 2008, 08:54 PM - 近況
万年筆が一本行方不明だった。

洗濯しようと洗濯機を回した。
ふと思って洗濯物を止めて中を調べた。
シャツのポケットに万年筆を刺したままだった。

万年筆のインクは強烈だから
このまま洗濯していたら全部黒くなっていただろう。

危ないところだった(´・ω・)


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努力 
火曜日, 5月 13, 2008, 09:45 PM - 戯れ言
努力が出来ることと、努力の仕方を知っていることは違う。
自身を苦しい境遇に置くことは努力かもしれないが、
単に苦しさに耐えれば人は強くなるというものではない。

学校の勉強は主に努力によって出来るようになる。
学校の勉強は勉強が出来るようになるために努力しなければいけない。
勉強が出来ることと、勉強の仕方を知っていることは違う。
暗記詰め込み教育では勉強は出来るようにはなるが勉強の仕方を知ることは出来ない。
また今の学校教育では勉強が出来ることしか評価せず、
勉強の仕方を知っていることは評価しない。
(まぁ評価されなければ意味が無いというのも変な話だが。)
ただし、暗記詰め込み教育が絶対的に悪いわけではない(後述)。

人は難題にぶつかると答えを探す。
しかし人間の思考には限界があり、いくら努力してもわからないことがある。
そんなとき、人は閃きにより答えを見つける。
量子力学においてはハイゼンベルグの不確定性原理のように、
どんなに人が努力しても人が絶対に特定できない値がある。
しかし特定できないだけで人が適当に値を打てば当たる確率はある。
このような状況では閃きや確率に依存するため、
もはや人がどうこうできることではないから、
努力することが無駄という人間がいる。
むしろ閃きや確率に依存するからこそ、努力して閃きやすくしたり、
当たる確率を高めようとするのだろうに。

トーマス・アルヴァ・エジソンの
「天才は1%のひらめきと99%の汗」という有名な発言がある。
この言葉は「努力は閃きに勝る」という努力の美徳に置き換えられることがある。
しかし真意は、難題は閃きでしか解けないからこそ、
閃きを活かせるように努力することが大事ということではなかろうか。

努力が出来ることと努力の仕方を知っていることは違う。
どんなに苦しい境遇に耐えて努力した気になっていても、
それが何のためのものか自身が認識していなければ、
所詮只の苦しみに過ぎない。
逆に自分の目標に対して、どのように努力すれば良いかを知っていても、
努力ができなければ目標には近づかない。
すなわち、「努力が出来ること」と「努力の仕方を知っていること」、
この2つは共に有る必要がある。

人に「努力が出来ること」と「努力の仕方を知っていること」、
この2つを持たせるには、どうしなければならないだろうか。
まず「努力が出来ること」を叩き込むか。
それとも「努力の仕方を知っていること」を叩き込むか。
鶏が先か、卵が先かであり、どっちが先は私もわからない。
だが一ついえることは、どちらにしろ先ずやってみなければ話にならない。

日本の学校教育は「努力が出来ること」が先のようだ。
暗記詰め込み教育はまさに「努力が出来ること」を叩き込んでいるのだろう。
これが先述した暗記詰め込み教育が絶対的に悪いわけではない理由である。
しかしこれは2つを持たせるための手段であり目的では無い。
だが人は「如何に暗記し、詰め込んだか」に目を奪われてしまう。




小学校の教師がいっていた。
「私は教師になりたかったから必死に努力して教師になった。だからお前も努力しろ。」
私にしてみれば己の夢と努力の美徳を人に押し付けるなと言いたい所だが、
当時子供だった私にはそんなことは言えなかった。
その教師は勉強が出来ることが人間の価値のようにいい、
そして暗に私が無価値な人間であるといった。
勉強嫌いな私は勉強に努力しないことで怒鳴られ叩かれした。
何故こんなのが教師になれるのだろう。
おかげで今でも劣等感と恐怖感が残る。
今になって思えば「苦しみに耐えること=努力」と誤解していたのだろう。
だから「努力」という言葉を連呼するやつに嫌悪感を感じていたのだろう。

我ながら歪んだ人格を持ったものだ。
人の所為にしても仕方が無い。
人の所為だとしても、誰かが助けてくれるわけではないのだから。
面倒だな。

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不良品のジョイスティック 
水曜日, 4月 16, 2008, 10:30 PM - 戯れ言
某メーカーのUSBジョイスティックを買った。
繋いでみたが右が効かない。
またボタンもやたらと反応が悪いのが多い。
初期不良だと思った。

保証が効かなくなるのは承知で開けてみた。
何が悪いのかわかった。
ジョイスティックのスイッチの半田が取れていた。
そしてボタンの裏にゴミが沢山ついていた。
スイッチの半田付けをして、ボタンを掃除したら正常に動くようになった。

製品のチェックをしていれば、不良品としてこれは店頭に並ばなかっただろう。
どうやらこのメーカーは製品のチェックをしてないようだ。
このメーカーは過去にソフトウェアのライセンスでもトラブルを起こしていた。
他人の作ったプログラムを許諾を得ずに製品に使用し、販売していたのだ。
物を作ることの根本の何かが抜けているようだ。
こんなメーカーの物は2度と買わない。


こんなことをブログで書くと、
偉そうなことを書くということで私が叩かれることになるのだろう。
でも、このメーカーが品質管理が雑ということは事実だし、
悪いものは悪いといわなければならないと思う。
批判はしないに越したことはないが、
しなければ良いというものでもない。
批判すべきときにしなければ、それこそジワジワと悪い方向に流れてしまう。
人は愚かだから。


ルールに従うならば、私は初期不良で交換すべきだったのだろう。
つまりルールを破ったのは私であり、非難されるべきは私かも知れない。
いってしまえば、私が勝手なことをやって勝手に怒っているだけともとれる。

法的に見れば、このメーカーは何も悪くない。
製品のチェックをしてなくても、初期不良で交換すればいのだから。
まぁ、悪いのは私か。

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桜が咲く 
日曜日, 4月 6, 2008, 11:08 PM - 戯れ言
西宮から京都府の北の方に単車で走りに行った。
人が多いのは嫌いだから京都市には入ってない。
田舎道をずっと行って、ただ帰ってきた。

桜が咲いていた。
北上するにつれて咲いている桜が少なくなった。
北の方はまだつぼみだけで咲いていないようだ。
「桜前線が北上」といわれるだけあって、南から咲いていくのだろう。




20年前のことになるが、小学校の入学式のとき桜が満開だった記憶がある。
入学式のような人の行事と、桜が満開になる時期が重なったということだ。
何故、その2つが重なるのかが不思議だった。
何か人が手を入れたのではないかと思った。
人が手を入れたのならば、それをどうやったのかが知りたかった。
いろいろ考えたけど、結局は只の偶然だった。


桜に開花をさせる「開花ホルモン」というものがあるらしい。
これは季節による気温の変化が作るらしい。
ということは人が人工的に開花ホルモンを作れば、
人の手で任意に桜を咲かせることが可能になる。

もし桜を意図的に咲かせることができるようになったらどうなるだろう。
人は毎年特定の日に咲かせたり、長く桜が残るように順番に咲かせるようにするだろう。
そして入学式のような式典の際には必ず咲くようにするだろう。
それは「桜が咲いていなくてはならない」状況を作り出す。

行事と桜の開花が合うのは偶然だから、合うと嬉しい。
だが合わらせれることができるなら、咲いていても嬉しくない。
それどころか合わないと残念などころか悲しみになる。


できないことができるようになることが人を豊かにすると思いたいが、
偶然の事象のありがたさを忘れ、浅ましくなることもあるのではなかろうか。
まぁ、実際そういうものはいっぱいあるわけだが、
桜はそうならないといいな・・・。

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猫の躾け方 
木曜日, 4月 3, 2008, 09:08 PM - 戯れ言
注意:
これは経験が元になっているが、
例え話だから実践しないように。


猫は基本的にいうことを聞かず、自分の意志の元に行動する。
だから飼い主にとって、「やってはいけないこと」を平気ですることがある。

「やってはいけないこと」をさせないようにするにはどうすればいいか。
2つ方法がある。
1:猫自身にそれをやるべきでないと思わせる
2:それを行ったときに叩いて痛い目に合わせる

1は難しい。
猫が相手だと、どうやって「やってはいけないこと」と思わせるかが巧くいかない。
犬が相手だとご褒美を与える与えないで振り分けることができるのだが、
猫はご褒美の概念が理解できないのが多いから難しい(希に理解できるのがいるが)。
また、ご褒美をやるというのは常用すると、
今度は「ご褒美を貰えるのが当然」と思うようになる。

2は簡単だ。
力任せに叩けばいい。
そうすれば次にそれを行おうとしたときに、
痛い目にあった記憶がフラッシュバックし止めるようになる。

人間の利かん坊を猫に例えると同じ事がいえる。
まぁ問題行動を頻繁に繰り返す利かん坊ならば
2を選択するのも仕方がないだろう(加減は必要だが)。
人間の社会は実際にも建前にも「やってはいけないこと」とされてることが多すぎるから。


悪さをする猫がいたとして、
ひたすら叩いて「やってはいけないこと」をしないようにしたとしよう。
猫は人に飼われているから、飼い主のいうことを守っていれば生きていける。
自分が悪さをしようとして、痛い目にあった記憶がフラッシュバックして
動けなくなったとしても生きていける。

問題行動を頻繁に繰り返す利かん坊がいたとして、
ひたすら叩いて実際にも建前にも「やってはいけないこと」をしないようにしたとしよう。
人間は一人で生きなくてはいけないから、
実際にも建前にも「やってはいけないこと」をやらなくてはいけないことがある。
それこそ混沌とした今の世の中ならば尚更だ。
でも、そういった「元」利かん坊は
「やってはいけないこと」をやらなくてはならない状況になっても、
痛い目にあった記憶がフラッシュバックして苦しむことになるだろう。
まぁ、そういう人は「やってはいけないこと」を
やらないから周りから見たら真面目な人に見えるだろう。
もっとも、精神状態がどんなものかはわかったものではないが。

そういや一番長くかかわった学校の先生はボコスカ叩いてたな。


真っ当ではない世の中で真っ当に生きないと
自分の精神に負担がかかるのはしんどいだろうねぇ。
そういう人にとってみれば「世の中は真っ当であるべき」ではなく、
「世の中が真っ当でないと俺が困る」なのだろう。

真っ当であることに超したことはないわけだが、まぁ無理だわな。
もっとも、だからといって躾が不要というわけではない。
難儀だな。

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