蝉が死んでいた 
日曜日, 7月 29, 2007, 01:40 AM - 戯れ言
出かけようと玄関を出ると、
アスファルトの上に蝉の死骸があった。
アスファルトの上に転がっていると、
人に踏まれるかもしれないし、車に轢かれるかもしれない。

どうせ死んでいるわけだから、もう生き物ではないのだから、
どうなっても知ったことではない。
だがアスファルトの上だと死骸を片づけてくれるような
鳥や虫もいないから、人に踏まれたり車に轢かれても
誰も片づけてくれないだろう。
とりあえず玄関の前で転がられてるのも邪魔だから
土のあるところまで運んだ。
蟻か微生物に分解されて土に還るだろう。

土の上で死ぬなら良く、
アスファルトの上で死ねば悪いという理屈はない。
死ぬときくらい土の上で死んで欲しいという僕のエゴだ。

蝉は所詮は虫だから死に場所を考えるような知能はないだろう。
逆にいえば彼らは死に場所を考えて生きてはいない。
そう考えるとそういう生き方をしている相手に対して
死ぬときの話をするのは無礼だな。

たかが虫一匹の死骸を見つけたくらいで
何をグダグダ考えてるんだろう。
「死ぬときのことを考えて生きるな。」
そんな当たり前のことを認識しただけなのに。
それとも僕はそもそもそれを認識していなかったから
ここまで考えたのか?

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無力 
日曜日, 7月 22, 2007, 07:41 PM - 戯れ言
無力なのは他人の責任にはできない。
すべては自分の責任だ。
他人には助けられない。
他人に助けられたとしても自分が無力であることには変わりはない。

無力と感じることには耐えて、力をつけるしかない。
だが耐える根性は無い。
逃げることはできる。
しかし逃げたら力はつかない。
そして同じことが繰り返されるのは目に見えてる。
そしていずれ逃げ場が無くなる。
いや最終的な逃げ場は無くなりはしないか。

根本的な問題は「耐える根性は無い」という部分だろう。
まぁ、元々根性はないからねぇ・・・。

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最近戯れ言を書かなくなったことに気がつく 
金曜日, 7月 13, 2007, 09:37 PM - 近況
最近戯れ言を書かなくなったことに気がつく。
忙殺されて書く時間がないのか、書く気力がないのかわからない。
それとも何も考えなくなったのかねぇ。

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理想と現実が違うこと 
日曜日, 6月 24, 2007, 06:12 PM - 戯れ言
理想と現実は違う。
理想は自由に想像できるが現実は制約が多い。
ただ今の世の中は(表向きは)生きることを保証されている。
だから極端に高い理想でない限り理想は努力次第で達成される。

現実を理想に近づける。
これは多くの人が望むことだろう。
ただ現実を理想に近づけるにはそれなりの努力を要する。
また論理的に達成が不可能な場合もある。

理想を現実に近づける。
今の世の中は(表向きは)生きることを保証されているが、
やはり現実は厳しい。
理想を持つとそれを実現することができず、
理想を持つことが苦痛になることがある。
達成することができない理想を持つくらいなら、
現実を見て達成することができる理想を持った方が良い。
でも、思い通りにならないのは現実だけで良いと思う。
理想まで現実に引っ張られる必要はない。

「身の程をわきまえろ」とか「身の丈にあったものを持て」というが、
それは現在の現実における「行動」に対する言葉であって、
持っている理想に対することではないだろう。
先述したように達成できない理想は苦痛になるから
持たない方が良いという意見からだろう。
でもそんなことを他人にいわれる筋合いはない。
というかそんなことはいわれなくてもわかってる。

「理想を持つとそれを実現することができず、
理想を持つことが苦痛になることがある。」
という問題があると先述した。
この問題の解決法を考えてみる。
この問題は3つ状態にわけることができる。
・理想を持つ
・理想を実現できない
・理想を実現できないことが苦痛になる
この3つの状態の中で「理想を実現できない」ことは
自分では完全にコントロールできない。
しかし残りの2つは自分の精神面の問題であり
(簡単にはいかないが)コントロールすることは出来る。
ならば解決法は2通りある。
1つは先述したときにも触れたように
「理想を持つ」という部分を
「現実を見て達成することができる理想のみを持つ」に変えることだ。
だか、この解決法は理想を現実に近づけなければならない。
もう1つは「理想を実現できないことが苦痛になる」と言う部分を
「理想を実現できないことを笑えるようにする」に変えることだ。
そうすれば理想を現実に近づけることなくこの問題を解決できる。
「現実は理想通りには行かないわwwwwwwwww」
くらいの心意気でやれば、こんな問題は問題で無くなるだろう。

結果として「理想と現実の違いを笑えるようにするという理想」を持てば良い。
しかし理想と現実は違うため
「理想と現実の違いを笑えるようにするという理想」を実現できないことがある。
ならば「「理想と現実の違いを笑えるようにするという理想」を
実現できないことを笑えるようにするという理想」を持てばよい。
しかし理想と現実は違うため
「「理想と現実の違いを笑えるようにするという理想」を
実現できないことを笑えるようにするという理想」を実現できないことがある。
ならば「「「理想と現実の違いを笑えるようにするという理想」を
実現できないことを笑えるようにするという理想」を
実現できないことを笑えるようにするという理想」を持てばよい。
しかし
(略)
ならば
(略)
しかし
(略)
ならば
(略)
現実と理想の組み合わせの数は無限ではないのだから何回か繰り返せば
いずれ理想と現実が合うところが出てくるだろう。

結局はたった3つのことに行き着く。
・現実を理想に近づければ良い。
・理想は現実に近づく必要はない。
・現実と理想の違いは笑ってやればいい。
たったこれだけのことなのに、どれも至極当然のことなのに、
理解するのにどれだけ時間掛けているだか。
まぁ、こうとでも考えてなかったらやってらんねぇわ。
我ながら情けない。

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習うより慣れろ? 
木曜日, 6月 14, 2007, 10:47 PM - 戯れ言
「習うより慣れろ」。
よく人が使う言葉だ。
間違ってはないと思う。
だが少々理不尽な言葉にも感じる。

いくら物事について習っても実際に物事を行った経験がなければ、
その物事を上手に行うことはできない。
だからあれこれ考えずに実際にその物事を行って慣れればよい。
そうすればあれこれ考えなくても出来るようになる。

慣れだけでは限界がある。
慣れるということはある程度は物事について何かを行ったということだが、
逆にやってないことについては何も知らない。
だから慣れた後こそ習う必要があると「僕は」思う。
習うことができないならば、自分で勉強するか考える必要がある。

僕は「習うより慣れろ」という言葉は
「習う前に慣れろ、そして慣れたら習え。」の略だと思う。
「習うより慣れろ」という言葉を慣れだけで使っていないだろうか。

だから慣れたなら言葉の意味を考えよう。
そして馬鹿の一つ覚えみたいに使うのは辞めよう。

論理的裏付けのない能力はいずれ破綻する。
慣れて能力にしたつもりでも、
論理的裏付けは習うか勉強しなければできない。
だから慣れだけで物事を進めるのは辞めよう。
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