警報 
木曜日, 7月 24, 2008, 11:48 PM - 戯れ言
悲しさ、寂しさ、悔しさ、
耐えることが辛い感情は沢山ある。
辛いのならば感じなくなればいい。
でもそれは解決にはならないし、
一時凌ぎでしかない。

心頭滅却すれば火もまた涼し。
火に耐えられる精神は必要かもしれない。
火に耐えられなくても、
麻酔でも何でも使えば耐えなくても感じなくはできる。
でも体は火に耐えることはできない。
いずれ、体が駄目になる。

辛い感情に耐えても、感じなくなっても、
どこかしらは消耗する。
辛いとを感じるというのは自身が痛むことに対する
警報を鳴らす機能が働いているということだ。
警報が鳴っているならば無視するわけにはいくまいて。

ただ人の感情は今の世の中とは正しくあっていない。
だから必要がないところで警報が鳴ることがある。
この場合は自分の警報を巧く調節するしかないだろう。
人の感情は壊れるから警報が鳴りっぱなしになることもある。
なんにせよ調子が悪いことには変わりない。

いっそのこと何も感じなければ良いのかも知れない。
でも人間の感情ってよくできたもので、そんな人でも、
警報が全く鳴らずどんどん消耗して、
死ぬ寸前までいったところで初めてもの凄い警報が鳴る。

警報が鳴るのはなんだかんだで自分の感情が正しく機能している証拠だ。
警報が鳴っていることを嫌がるのではなく、
何故警報が鳴っているのか、どうすれば鳴りやむのかを考えるのが、
本来の警報の正しい使い方なんだろう。

怖いのは警報が全く鳴らないことだと私は思う。
今の世の中は、警報が全く鳴らずに
消耗しきった人は立ち直るのが難しい。
そしてそういう人の警報が激しくなり出したならどうなるだろう。
鳴り続ける警報と立ち直ることのできない現実、
その2つしか見えないとき、その人はどういう行動をとるだろうか。

辛い感情でも、必要だから人間という動物に元々備わっている。
だからねじ伏せたり捨てるわけにはいかない。
必要なのは何故あるのかどう使えばいいかを考えることだろう。

でも、何故、その「考える」というのは人間に元々備わってないのだろう。
難儀だな。

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シンプルイズベスト? 
日曜日, 6月 15, 2008, 11:32 PM - 戯れ言
プログラムを書いたり、
雑記を書いたり、
設計をしたり、
バイクの整備をしてたりするとき、
なるべく余計な事をしないようにする。
何事も複雑にすると混乱する原因となってしまうからだ。

複雑なものを作ろうとすると、いろいろなトラブルが発生する。
複雑なものは自分に全体が把握しにくく、見落としが発生しやすい。
見落としを発生したとき、その箇所に修正を加えるが、
その修正の影響が全体に及ぶことがある。
全体に及ぶだけならともかく、全体を作り直さなければならないこともある。
だからシンプルにして把握しやすくして問題が発生しにくくする。

物事はシンプルであるべきかもかもしれない。
だがシンプルであるべきという強迫観念が生まれると新たな問題を引き起こす。
1つ1つはシンプルなものでも、組み合わせが多くなれば複雑になるから。

たまたま自分自身が把握しきれないくらい複雑なものを巧くできたとしても、
把握できていないのだから次に同じ事をしようとしてもできない。
それは「力がある」とはいわない。
自分自身にとってシンプルに理解できなければ、
物事を把握できず、力を出し切れなくなる。
(2008/03/01の戯れ言「論理的裏付けのない才能はいずれ綻ぶ」に関連)

大事なことは「シンプルであるべき」ということではなく、
複雑なことをシンプルに理解できるようにすることだろう。
自分自身にとってシンプルにして自分が把握できていれば力を出せる。
その場合は他人から見て複雑でも良い。
(ただし共同作業のときは合わせる必要がある)。


私は自分が複雑なものを創れないことに
シンプルイズベストという言葉で誤魔化していた。
私にとってシンプルなものでも、他人から見たら複雑なのかもしれないが、
私の「シンプルに理解できる力」は成長していない。
シンプルでも理解できるレベルの+1%でも複雑にすれば理解する力がつくのかな。

人間、できないことができるようになると、
できる範囲内で物事を考えようとする。
もっとも楽をするために新しい力を求めるのだろうけど・・・。

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万年筆を捜索 
火曜日, 5月 20, 2008, 08:54 PM - 近況
万年筆が一本行方不明だった。

洗濯しようと洗濯機を回した。
ふと思って洗濯物を止めて中を調べた。
シャツのポケットに万年筆を刺したままだった。

万年筆のインクは強烈だから
このまま洗濯していたら全部黒くなっていただろう。

危ないところだった(´・ω・)


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努力 
火曜日, 5月 13, 2008, 09:45 PM - 戯れ言
努力が出来ることと、努力の仕方を知っていることは違う。
自身を苦しい境遇に置くことは努力かもしれないが、
単に苦しさに耐えれば人は強くなるというものではない。

学校の勉強は主に努力によって出来るようになる。
学校の勉強は勉強が出来るようになるために努力しなければいけない。
勉強が出来ることと、勉強の仕方を知っていることは違う。
暗記詰め込み教育では勉強は出来るようにはなるが勉強の仕方を知ることは出来ない。
また今の学校教育では勉強が出来ることしか評価せず、
勉強の仕方を知っていることは評価しない。
(まぁ評価されなければ意味が無いというのも変な話だが。)
ただし、暗記詰め込み教育が絶対的に悪いわけではない(後述)。

人は難題にぶつかると答えを探す。
しかし人間の思考には限界があり、いくら努力してもわからないことがある。
そんなとき、人は閃きにより答えを見つける。
量子力学においてはハイゼンベルグの不確定性原理のように、
どんなに人が努力しても人が絶対に特定できない値がある。
しかし特定できないだけで人が適当に値を打てば当たる確率はある。
このような状況では閃きや確率に依存するため、
もはや人がどうこうできることではないから、
努力することが無駄という人間がいる。
むしろ閃きや確率に依存するからこそ、努力して閃きやすくしたり、
当たる確率を高めようとするのだろうに。

トーマス・アルヴァ・エジソンの
「天才は1%のひらめきと99%の汗」という有名な発言がある。
この言葉は「努力は閃きに勝る」という努力の美徳に置き換えられることがある。
しかし真意は、難題は閃きでしか解けないからこそ、
閃きを活かせるように努力することが大事ということではなかろうか。

努力が出来ることと努力の仕方を知っていることは違う。
どんなに苦しい境遇に耐えて努力した気になっていても、
それが何のためのものか自身が認識していなければ、
所詮只の苦しみに過ぎない。
逆に自分の目標に対して、どのように努力すれば良いかを知っていても、
努力ができなければ目標には近づかない。
すなわち、「努力が出来ること」と「努力の仕方を知っていること」、
この2つは共に有る必要がある。

人に「努力が出来ること」と「努力の仕方を知っていること」、
この2つを持たせるには、どうしなければならないだろうか。
まず「努力が出来ること」を叩き込むか。
それとも「努力の仕方を知っていること」を叩き込むか。
鶏が先か、卵が先かであり、どっちが先は私もわからない。
だが一ついえることは、どちらにしろ先ずやってみなければ話にならない。

日本の学校教育は「努力が出来ること」が先のようだ。
暗記詰め込み教育はまさに「努力が出来ること」を叩き込んでいるのだろう。
これが先述した暗記詰め込み教育が絶対的に悪いわけではない理由である。
しかしこれは2つを持たせるための手段であり目的では無い。
だが人は「如何に暗記し、詰め込んだか」に目を奪われてしまう。




小学校の教師がいっていた。
「私は教師になりたかったから必死に努力して教師になった。だからお前も努力しろ。」
私にしてみれば己の夢と努力の美徳を人に押し付けるなと言いたい所だが、
当時子供だった私にはそんなことは言えなかった。
その教師は勉強が出来ることが人間の価値のようにいい、
そして暗に私が無価値な人間であるといった。
勉強嫌いな私は勉強に努力しないことで怒鳴られ叩かれした。
何故こんなのが教師になれるのだろう。
おかげで今でも劣等感と恐怖感が残る。
今になって思えば「苦しみに耐えること=努力」と誤解していたのだろう。
だから「努力」という言葉を連呼するやつに嫌悪感を感じていたのだろう。

我ながら歪んだ人格を持ったものだ。
人の所為にしても仕方が無い。
人の所為だとしても、誰かが助けてくれるわけではないのだから。
面倒だな。

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不良品のジョイスティック 
水曜日, 4月 16, 2008, 10:30 PM - 戯れ言
某メーカーのUSBジョイスティックを買った。
繋いでみたが右が効かない。
またボタンもやたらと反応が悪いのが多い。
初期不良だと思った。

保証が効かなくなるのは承知で開けてみた。
何が悪いのかわかった。
ジョイスティックのスイッチの半田が取れていた。
そしてボタンの裏にゴミが沢山ついていた。
スイッチの半田付けをして、ボタンを掃除したら正常に動くようになった。

製品のチェックをしていれば、不良品としてこれは店頭に並ばなかっただろう。
どうやらこのメーカーは製品のチェックをしてないようだ。
このメーカーは過去にソフトウェアのライセンスでもトラブルを起こしていた。
他人の作ったプログラムを許諾を得ずに製品に使用し、販売していたのだ。
物を作ることの根本の何かが抜けているようだ。
こんなメーカーの物は2度と買わない。


こんなことをブログで書くと、
偉そうなことを書くということで私が叩かれることになるのだろう。
でも、このメーカーが品質管理が雑ということは事実だし、
悪いものは悪いといわなければならないと思う。
批判はしないに越したことはないが、
しなければ良いというものでもない。
批判すべきときにしなければ、それこそジワジワと悪い方向に流れてしまう。
人は愚かだから。


ルールに従うならば、私は初期不良で交換すべきだったのだろう。
つまりルールを破ったのは私であり、非難されるべきは私かも知れない。
いってしまえば、私が勝手なことをやって勝手に怒っているだけともとれる。

法的に見れば、このメーカーは何も悪くない。
製品のチェックをしてなくても、初期不良で交換すればいのだから。
まぁ、悪いのは私か。

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