物を創る者として 
土曜日, 9月 6, 2008, 12:46 PM - 戯れ言
物を創るには技術が必要だ。
だから創りたい物があっても自分の技術不足のために創れないことがある。

創りたい物を創れるように技術を習得するか、
それとも創りたい物を自分の技術にあわせるか、
いくつかの選択肢がある。

心意気は前者で居たいものだなぁ。

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スパム 
土曜日, 8月 23, 2008, 02:42 PM - 近況
海外系のスパムが鬱陶しいのでブログのコメント機能をオフにしてました。
とりあえず少し手をいれてコメント機能を復活させました。

なんでこんなことに気を付けないといけないんだろうねぇ。
スパムの培養シャーレになるような国は
インターネットから隔離したらいいのに・・・。

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多数派優遇 
月曜日, 8月 11, 2008, 05:09 PM - 戯れ言
どんな物事でも多数派と少数派がいる。
何かの負担を多数派と少数派で分けるとき、
どちらの負担が多くなるだろうか。
多数派は数が多いから、声が大きい。
少数派は数が少ないから、声が小さい。
誰でも負担は負いたくない。
ならば少数派の負担が大きくなりやすくなる。
(政治的な制御がある場合は除く)

余力の多い方と、余力の少ない方が負担を分け合うとき、
どちらの負担を大きくするべきだろうか。
余力の少ない方の負担を大きくする場合を考えてみよう。
後者の負担を多くすると、後者が潰れてしまうことがある。
そして後者が潰れると、前者の中で新しく余力の多い方と少ない方が分かれ、
新しい余力の少ない方の負担が大きくされる。
そして新しい後者が潰れ、同じ事を繰り返す。
これを繰り返すと余力の少なくなった人から潰れていってしまい、
誰も残らなくなってしまう。
だから、負担は余力の多い方を大きくしなければならない。

余力の多い多数派と余力の少ない少数がいるときはどうなるだろう。
余力の少ない少数に負担が集中し、余力の少ない方から潰れていく。
そして多数派の中でも余力の少ない方が少数派にされ、潰れていく。
これを繰り返すと、誰も残らなくなってしまう。
だから、そうならないように、余力の小さい少数派がいるときは、
少数派の負担が大きくならないように配慮しなければならない。

少数派の負担が大きくならないようにするにはどうすればいいのだろうか。
すべての人が、全体の中で自分が多数派と少数派のどちらであるか、
余力が多い方か少ない方のどちらであるかを判断し、
全体のために自身の負担を調節できるならば良い。
だが現実的にはそれは不可能だろう。
ならば政治的に制御するのが妥当だろう。
厄介なのは政治家が票を集めるために多数派に媚びを売ることだ。
そして多数派を優遇する政策を実行する。

全てがそうとは限らないが、
経済的な余力は若者には少なく、中高年にはある。
今の日本の人口ピラミッド(年齢別の人口分布)を見ると
中高年の人口が若い世代の人口より多い。
中高年に媚びを売る政治家が増えたならどうなるだろう。
若い世代の意見は黙殺され、大きな負担を強いられ、潰される危険性がある。
そして若い世代が潰れれば、大きな負担の矛先が2番目に少ない世代に向くだけだ。

自分が多数派だとしても安心してはいけない。
そんなことをしていると、気がつけば自分が少数派になり、
自身が潰されることになる。
楽をしようとすると往々にして自分が苦労することになる。
だから、馬鹿ではいられない・・・。

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警報 
木曜日, 7月 24, 2008, 11:48 PM - 戯れ言
悲しさ、寂しさ、悔しさ、
耐えることが辛い感情は沢山ある。
辛いのならば感じなくなればいい。
でもそれは解決にはならないし、
一時凌ぎでしかない。

心頭滅却すれば火もまた涼し。
火に耐えられる精神は必要かもしれない。
火に耐えられなくても、
麻酔でも何でも使えば耐えなくても感じなくはできる。
でも体は火に耐えることはできない。
いずれ、体が駄目になる。

辛い感情に耐えても、感じなくなっても、
どこかしらは消耗する。
辛いとを感じるというのは自身が痛むことに対する
警報を鳴らす機能が働いているということだ。
警報が鳴っているならば無視するわけにはいくまいて。

ただ人の感情は今の世の中とは正しくあっていない。
だから必要がないところで警報が鳴ることがある。
この場合は自分の警報を巧く調節するしかないだろう。
人の感情は壊れるから警報が鳴りっぱなしになることもある。
なんにせよ調子が悪いことには変わりない。

いっそのこと何も感じなければ良いのかも知れない。
でも人間の感情ってよくできたもので、そんな人でも、
警報が全く鳴らずどんどん消耗して、
死ぬ寸前までいったところで初めてもの凄い警報が鳴る。

警報が鳴るのはなんだかんだで自分の感情が正しく機能している証拠だ。
警報が鳴っていることを嫌がるのではなく、
何故警報が鳴っているのか、どうすれば鳴りやむのかを考えるのが、
本来の警報の正しい使い方なんだろう。

怖いのは警報が全く鳴らないことだと私は思う。
今の世の中は、警報が全く鳴らずに
消耗しきった人は立ち直るのが難しい。
そしてそういう人の警報が激しくなり出したならどうなるだろう。
鳴り続ける警報と立ち直ることのできない現実、
その2つしか見えないとき、その人はどういう行動をとるだろうか。

辛い感情でも、必要だから人間という動物に元々備わっている。
だからねじ伏せたり捨てるわけにはいかない。
必要なのは何故あるのかどう使えばいいかを考えることだろう。

でも、何故、その「考える」というのは人間に元々備わってないのだろう。
難儀だな。

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シンプルイズベスト? 
日曜日, 6月 15, 2008, 11:32 PM - 戯れ言
プログラムを書いたり、
雑記を書いたり、
設計をしたり、
バイクの整備をしてたりするとき、
なるべく余計な事をしないようにする。
何事も複雑にすると混乱する原因となってしまうからだ。

複雑なものを作ろうとすると、いろいろなトラブルが発生する。
複雑なものは自分に全体が把握しにくく、見落としが発生しやすい。
見落としを発生したとき、その箇所に修正を加えるが、
その修正の影響が全体に及ぶことがある。
全体に及ぶだけならともかく、全体を作り直さなければならないこともある。
だからシンプルにして把握しやすくして問題が発生しにくくする。

物事はシンプルであるべきかもかもしれない。
だがシンプルであるべきという強迫観念が生まれると新たな問題を引き起こす。
1つ1つはシンプルなものでも、組み合わせが多くなれば複雑になるから。

たまたま自分自身が把握しきれないくらい複雑なものを巧くできたとしても、
把握できていないのだから次に同じ事をしようとしてもできない。
それは「力がある」とはいわない。
自分自身にとってシンプルに理解できなければ、
物事を把握できず、力を出し切れなくなる。
(2008/03/01の戯れ言「論理的裏付けのない才能はいずれ綻ぶ」に関連)

大事なことは「シンプルであるべき」ということではなく、
複雑なことをシンプルに理解できるようにすることだろう。
自分自身にとってシンプルにして自分が把握できていれば力を出せる。
その場合は他人から見て複雑でも良い。
(ただし共同作業のときは合わせる必要がある)。


私は自分が複雑なものを創れないことに
シンプルイズベストという言葉で誤魔化していた。
私にとってシンプルなものでも、他人から見たら複雑なのかもしれないが、
私の「シンプルに理解できる力」は成長していない。
シンプルでも理解できるレベルの+1%でも複雑にすれば理解する力がつくのかな。

人間、できないことができるようになると、
できる範囲内で物事を考えようとする。
もっとも楽をするために新しい力を求めるのだろうけど・・・。

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