ものはいいよう 
日曜日, 12月 30, 2007, 01:27 AM - 戯れ言
ものはいいようで良くも悪くもいえる。
良いものを悪くもいえるし、
悪いものを良くもいえる。
なぜなら、他人にとって良いものでも私にとっては悪いものもあり、
その逆もまた然りだから。
また自分が良い面と悪い面の
両方を既に把握しているならどちらの面もいえる。

天の邪鬼な人は除くが、
一般に人は自分のことについて
良くいわれるとやる気をだし、
悪くいわれるとやる気を失う。
だから人は他人のことを悪くいわなくする。
どうでもいいことでも他人のことは良くいっておく。
つまりお世辞のことだ。
もっとも人間が掃いて捨てるほど居て、
密集してる今の日本ではお世辞は必須だろう。

お世辞そのものが良いか悪いかはどっちでもいい。
お世辞をいうことが常習化し、お世辞が必須となり、
悪くいうことがタブー化してはいないだろうか。
悪くいうことがタブーとなったことで、
悪く考えることまでしなくなり、
本当に認識しなくてはいけない悪いことにまで気づけず、
悪いことが野放しになっていないだろうか。
また自分が、自分のことを悪くいう人のことを、
非常識と思うような人間になっていないだろうか。

ものはいいようだから良くも悪くもいえる。
だから他人のいう良し悪しは当てにならない。
所詮他人は主観が違うから、
その人にとって良いことでも、
自分にとって良いとは限らない。


自分の中で、悪くいうことがタブー化し、
他人のいう良し悪しを当てにしたら
他人のいうことを鵜呑みにすることになる。
「他人のいうことを鵜呑みにすること」は、
私が嫌いだから勝手に悪いことにして話を進める。
悪くいうことがタブー化すると、
本当に認識しなくてはいけない悪いことが野放しになる。
こんなことがタブー化することがそもそもの問題なのだが、
タブー化してしまったものは仕方がない。
この場合は何ができるだろうか。
いうことはできなくても、考えることはできる。
だから口には出さなくても、考えよう。
「悪い面ばかりを考えるな」と人にいわれようが関係ない。
[精神の自由] > [タブー]だと、「私は」信じる。

他人のいう良し悪しは当てにならない。
たとえばAさんが
「○○は◇◇だから良い(悪い)よ」といったときを考える。
その意見をどのように記憶するかで変わってくる。
(1)「○○は良い(悪い)」と記憶すると、
他人のいう良し悪しをそのまま記憶することになる。
(2)「○○は◇◇だから」を記憶すると、
○○は◇◇という特徴が掴め、良し悪しの判断をするのは自分になる。
(3)「Aさんが○○は◇◇だから良い(悪い)といった」と記憶すると、
○○は◇◇であるという特徴が掴め、
Aさんが何を考えて良い(悪い)と判断したのかを推測できる。
つまり、すべてを記憶するに越したことはない
だがイチイチすべてを記憶することはやってられない。
だから人は適当に手を抜いて部分的に記憶する。
このときに無意識に(1)か(2)の
どちらかで記憶することになるだろう。
他人のいう良し悪しは当てにならないのならば、
(2)を選ぶ方が良い(?)が、
無意識ゆえに実際には(1)を行っていないだろうか。


ものはどうとでもいえる。
自分の中でも考え方でどうとでもいえるし、
人のいうことは当てにできない。
だから自分で考えることが大事だと思う。

もっとも私も自分で良し悪しを判断せず、
人の意見に乗っかって同調できるような人間だったら、
もっと楽に逝きれただろうねぇ(´・ω・)

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精神の補強 
火曜日, 12月 25, 2007, 11:55 PM - 戯れ言
補強は所詮補強であり、支柱ではない。
逃げず、臆せず、屈せずと自分に言い聞かせることや、
友人、家族、恋人、妻子を守ると自分を奮い立たせること、
どちらも自分の精神の支柱への補強だ。

補強とは支柱に付け加えるものだから、
支柱そのものが強くなるわけではない。
友人が居ようとも家族が居ようとも恋人が居ようとも妻子が居ようとも、
所詮人間は一人なのだから自分を支えるのは自分だ。

人という字は支え合っているといわれる。
これは倒れないように支え合っているだけで、
自分の重さはそれぞれで支えてる。
飽くまで倒れないようにしているだけだ。

補強は支柱が痛んだときに初めて使うものだ。
痛んだ支柱が重さを支えられないとき、
一時的に補強をして支柱を修理する。

補強は常用するものではない。
補強があるから、心の支えがあるから
生きていけるというのは少々危険だろう。
「心の支えがあるから「安心して」生きていける。」
本来はそうあるべきだと思うのだが、所詮理想か。
だが補強があってやっとギリギリ生きていけるという
今の世の中は危険どころではない状態だと思う。


かくゆう私もギリギリだ。
力があればと思う。
しかし力があればこんなことは考えないだろう。
追い詰められているから考えるのだろう。
しかし考えたところで何も変わりはしない。
動かなければ変わらない。
しかしどう動けばいいかがわからない。
それを考えればいいのだが、それが考えられない。
何が悪いのかはわかっているが、それができない。
我ながら愚か者だ。
しかし今以上にギリギリになったとき、考えられなくなり、
自分自身の愚かさにさえ気がつかなくならないかが怖い。
それが嫌だから踏んじ張ってるわけだが、少々しんどい。

いっそのこと考えなくして自分の愚かさに
気がつかないようにすれば楽なんだろうけどね。



#そういや僕の単車のR1-Zは後期型には
#フレームに補強が入ってるけど僕の初期型には入ってない。
#大丈夫なんかな( ・ω・)?
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愚か者は愚か故に利口になる 
月曜日, 12月 24, 2007, 04:48 PM - 戯れ言
愚か者は愚か故に愚かなことをやり、痛い目に遭う。
そして次に痛い目に遭わないために学習し、利口になる。

愚か者は周りの人間の迷惑になる。
周りの許容できる程度の愚かさならば良いが、
それを超すとどうなるだろうか。
周りに被害が出る上に愚か者は己の愚かさを学習することもなく、
同じ被害をこの後にも繰り返すだろう。
繰り返せばいずれ周りが耐えられなくなる。


子供は無知故に愚かであり、悪いことをする。
だから大人が止めてやらねばならない。

性善説的に「子供が悪いことをするわけがない」という愚か者もいるが、
実際に子供は悪いことをする。
もっとも、子供が「子供自信にとって」悪いと思うことをするわけがないが、
子供が「意図せず」周りにとって悪いことをしてしまうことは事実だ。
だから上の事実を捉えるには「子供が悪いことをするわけがない」というのは不適切だ。
もっとも、こういったことをいう人は
そのことをわかってていってるのかも知れないが、
報道するメディアが「言葉が長すぎるから簡潔に」との理由で
勝手に縮めているの「かも」しれない。
まぁ、言葉遊びはどうでもいい(もともと言葉遊びは苦手だ)。


人が集まるとグループに分けることができる。
大人のグループは仕事に、子供のグループは学校に行く。
このご時世、大人のグループと子供のグループに接点はもはやない。
子供のグループに学校があるが、学校には少数の大人しかいないため、
学校は愚か者に対する許容量が少なすぎると「思う」。

一人で夜道を歩いていた子供に「危ないから早く帰れよ」と
注意した人が不振人物として通報されてしまう。
子供が人と関係を持つことを許されるのは
「親、兄弟、学校の先生、同じ学校の子供」だけなのだろうか。
「親、兄弟、学校の先生、同じ学校の子供」の中で大人は
親と学校の先生だけだが、親は仕事で忙しく、
学校の先生は子供の数に対して割合が少ない。
さて、誰が子供の愚かさを指摘できるのだろうか。


人は全知にはなれない。
だから人は何某らの無知を抱える。
人は無知だから愚かなことをする。
愚かなことは悪いことを含む。
故に人が悪いことをするのは必然である。
だから世界は愚か者を許容し、
利口にすることができる必要がある。

もっとも私には愚かさを許容することも、
愚かさを指摘して利口にすることもできない。
わかっていても何もできない、典型的な愚か者だな。

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時代は変わったんだ!オールドタイプは失せろ! 
土曜日, 12月 22, 2007, 05:50 PM - 戯れ言
時間が経ち、世代が入れ替わり、時代が変わる。
古い世代から新しい世代へと入れ替わりながら時代が変わっていく。

新しい世代は古い世代を押し出すように時代を変えてゆく。
新しい世代は若さ故に愚かだが、愚か故に無謀ともいえる勇気を持つ。
古い世代は経験は豊富だが、経験の多さ故に振り回される。

新しい世代は自分を信じ、古い世代は自分の経験を信じる。
どっちが正しいのかはわからないし、どっちが正しいというわけでもないだろう。
だから世界には両方が存在し、両方が衝突しながら局所解に近づいていく。
新しい世代と古い世代が衝突するのは当然であり必然であり、必要だろう。
「最近の若い者は・・・」というフレーズが古代よりあったのも必然だろう。

新しい世代は古い世代を押しのけようとする。
古い世代もただでは押しのけられない。
だから衝突する。
その衝突の中で相互理解が生まれていく。
しかし衝突の中で相互理解が生まれるには2者の力が同等である必要がある
力が同等でなければ衝突しても一方的に潰すだけで相互理解は生まれない。


日本の社会では(崩壊しつつあるものの)年功序列で権力が与えられる。
そして日本の年齢別人口では60歳前後に偏っている。
現在、新しい世代には権力もなく人口も少ない。
古い世代には権力があり人口も多い。
2者の力はもはや同等ではない。
このままでは新しい世代が古い世代に一方的に潰されてしまう。

日本の成人には一人一票の選挙権が与えられる。
これには年齢別人口が偏ってる場合、世代間で不公平が出る問題がある。
人口が多い世代は一票の重みは下げ、人口の少ない世代の一票の重みは上げれば、
「世代間で不公平」という意味では解決する。
しかし、これをやると今度は「基本的人権」で問題が出る。
まぁどっちもどっちだ。


2者の力が同等でなく、どちらかが一方的に潰されそうなとき、
潰されそうな方が取る最終手段は実力行使ではなかろうか。
その方法は犯罪であったり、戦争であったり、テロだろう。
もっとも、このような実力行使は幼少期からの教育によって防げる。
幼少期からの教育で争いが起こらないよう、人と衝突しないように
「牙」を持たないように育てればいい。
今の若者のように無気力となるように。

「時代は変わったんだ!オールドタイプは失せろ!」
若者にはそれくらいの心意気が必要だと思うのだが、
そんな若者は修正されてしまうんだろうねぇ。


注)
「時代は変わったんだ!オールドタイプは失せろ!」は
機動戦士Zガンダムの登場人物:ジェリド・メサの名台詞。

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おもちゃに対象年齢 
火曜日, 12月 18, 2007, 11:59 PM - 戯れ言
おもちゃ屋に立ち寄った。
子供がおもちゃをねだっていた。
母親が子供に「対象年齢が足りてないからダメ」といっていた。
子供は母親に「できる〜」といっていた。
まぁ単に買わないための口実だろうからそれは別にいい。

おもちゃには対象年齢があることを思い出した。
遊ぶことにも年齢制限がかかるのか。
(おもちゃメーカーの問題発生時の責任の都合かもしれないが)
対象年齢を満たして無くても、
やらせて見て遊べるならそれでいいし、
わからなければそれも経験だと僕は思う。
年齢制限がかかる遊びなんて「飲む、買う、打つ」だけで十分だ。

おもちゃくらいなら対したことは無いかも知れないが、
高度な遊びは危険を伴う。
また、遊ぶために、遊びと認識するために高度な知識が必要になる。
しかし、それは危険なものを危険であると認識するきっかけになる。
また、高度な知識を得ることの楽しみになる。

僕は小学校の頃にプログラムに興味を持ち、触っていた。
自分の書いたプログラムの通りに動くのが面白かった。
より詳しく知るために本を読んでいたが、詰まった。
本の中で「Sineカーブを描く」というのがあったが、
当時の知識ではそれはわからなかった。
Sineなどの三角関数は中学高校の課程だから知らなくてもおかしくない。
ただ、その経験は中学高校の数学を遊びに変えた。
まぁ僕についてはどうでもいい。



勉強はおろか、遊びも教えられない親が増えているのではなかろうか。
おもちゃを買い与えることが遊びを教えることではないだろう。
また塾に通わせることが勉強を教えることではないだろう。
だが今の社会情勢として親が子と対峙できる時間はあるのだろうか。
たぶん無いだろう。
また親の世代のおもちゃが、今の子供にとってのおもちゃになるだろうか。
たぶんならないだろう。

なら、年齢制限作り、機械的に子供に勉強も遊びも詰め込んでいった方が効率的か。

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